そらもよう

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障がいとか病気とかを考えた

2010年06月21日 · コメント(0) ·

今月は最近障がいを持つ人からの話を聞く機会が多かったんですよねー。みのりcafeで開かれた「患者と医療をつなぐ会」での話やみのりcafeマスターの鈴木さん(のぶさん)の講演、I-cubeシーズン2のMTGで仲間が話していた「(白杖をついてる)障がい者が働いてて当たり前にしたい」と、それぞれ立場の違う方々からの話をうかがいました。

お話を伺って、近頃、障がいとか病気と一緒に生きる方達の気持ちはどこまで持たない人が理解できるのかと考えたりしています。ちょっとまとまりきらなかったんだけど、考えたことを書き連ねていきます。

医療系の学校だと、患者さんの気持ちを理解しようという流れのコミュニケーション学の一環として、患者体験というのがあったりします。アイマスクをして道を歩いたり、車椅子に乗って移動したりってやつですね。わたしも看護学校に通っていた頃やりました。

それで学生たちは「目が見えない状態で歩くのは怖かった」とか「ちょっとの段差でも車椅子であがるのは大変だった」とか感想をもつわけですが、日ごろ問題なく動いているから怖い、大変と思うわけで、生まれたときからその状態があたりまえだった人は怖いと思わないと思います。

この怖いとか大変っていう想いは、今までアタリマエだと思っていたことができなくなるからで、自分のアタリマエの基準が変わるから起こる感情ではないでしょうか。

だから目が見えないのがアタリマエだったら、視覚を別な形で補う生活がアタリマエな生活なわけで、その感覚は見えているわたし達には絶対わからないものだと思うんです。

もちろん相手の立場だったらと想像することは大切なんだけど、一時的に体験したものは一時的でしかなくて、限りなく表面的な体験なんだと理解しておくべきだと思うんです。それなのに「目が見えないって怖いね」「不便だね」だけで終わらせるんだったら意味が無いじゃないでしょうか。

わたしが思うのは、障がいそのものの苦しさより、たぶんそれに付随してくるものが痛みなんじゃないかってことです。患者体験でできるのは障がいの疑似体験で、街での視線とか、心無い言葉とか、障がいを理由に受けた差別とかっていう痛みはわたしたちには想像するしかない部分です。

だから本当に必要な教育は、内面のこういった痛みをちゃんとわからせることだと思います。ただ、ココにも壁があります。「(障がいや病気について)どこまで聞いていいのかわからない」と思ったことのある人はたぶん結構な数いるでしょう。

初対面の人に尋ねるのは出会い方によるけれど、知り合いに対してであっても「こういうことを聞くのは無神経なんじゃないか」とか「失礼にあたるんじゃないか」って心配になるのは当然で、そう思わないまま聞くのはありえないと思います。

ただ、聞かないままでいたらどこか変な遠慮が生まれてきてしまう。本人にできるか確かめることなく、もしかしたらできないかもしれないから最初から言わない、とかね。だから目に見える形の障がいであればなおのこと、つきあいが深まっていく上で触れないままでいるのは無理だと思うんですよ。

どういう尋ねかたがベストなのか。どういう風に聞かれるなら腹が立たないのか。

わたしだったらどうだろう。ひきこもりの間どうしてたの?とかだったら全然okだなあ。ひきこもりで親泣いたんじゃない?だとちょっと答えづらくなるなあ。自傷の痕とかは「やっちゃったんだね」以上は触れて欲しくないなあ。

…うーん、けっこう難しい。出来事を聞かれるのは問題なし。感情の部分は聞いてきた人によるかも。

今のところは「○○について聞いてもいい?」って前置きするくらいしかわからないなあ。
人によってはイヤって言いづらいのかもしれないけど^^;

あーでも聞かれる側も自衛策として「それは答えたくない」って言えないとダメだよねー。別にこれは障がいや病気のあるなしに関係ないけどさ。

結局これだと障がいとか病気とか以前の【人としてのアタリマエつきあい】が結論になってしまうけど、ちょっとこれ以上まとめられそうにないのでここでおしまいにします^^; みなさんがどう思われてるのか教えていただけると嬉しいです。

カテゴリー :思考
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